鏡像体験とはなんぞや
と、まあこの記事で書いたような事をつらつら思っていたわけですが
- 作者: 正村俊之
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2000/03
- メディア: 単行本
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という本の中で、興味深い記述をみつけたので以下引用。
>>p.125-126 自己と他者が別々の視座を有することは、成人にとっては自明であるが、人は、誕生したときからそのような状態にあるのではない。むしろ、自他未分の状態にある。(中略)この段階では、自己と他者は未分離であるだけでなく、共振的な関係にある。一人の赤ん坊が泣き出すと、他の赤ん坊までもが次々と泣き出すのも、そのためである。メルロ・ポンティは、「私の志向が他人の身体に移され、他人の志向も私の身体に移される」(Merleau-Ponty,1962=1966,p136)ことを自他の「癒合性」とよんだ。精神分裂病患者においては、それまで維持されていた自他の境界が喪失し、自己の内面が他者に筒抜けになったり、他者が自己の内部に忽然と姿を現したりするが、このような現象も、自他の未分性・癒合性に起因している。<<
お、精神分裂病=統合失調症についての記述が出てきたぞ?というところから興味をひかれ。
>>【p.126】記号習得以前の段階では、幼児は、もっぱら自らの感覚器官と身体的運動をつうじて外界とかかわっている。身体は、外界との物質的交流をつうじて世界を映し出すとはいえ、最初から世界を映し出す鏡として機能するわけではない。J・ラカン(1949=1972)によれば、人間は、神経系が未発達なまま誕生したために、幼児の身体はバラバラな状態にある。身体は、一つのまとまりをもった感覚・運動系をなしているのではなく、部分のよせ集めにすぎない。この「寸断された身体」の状態を乗り越える契機が鏡像体験である。<<
お、その「寸断された身体」というのを乗り越える方法があるわけだ。ふむふむ。
鏡像体験、とはなんぞ?
>>【p.126-127】鏡に映った身体像は、象徴的意識が発達する以前においては、単なる外的対象として認知される。鏡に映った身体像は、自分が位置する「ここ」ではなく、「あそこ」に位置しており、しかも自己のバラバラな身体とちがって、統一的な姿態をなしている。そのため、鏡像を自己像として認識することができない。ところが、象徴的意識が芽生えてくると、鏡像は、他者の身体像との差異を介して自己の身体像として把握される。鏡像が自らの身体像として同定されたとき、幼児は自らの身体的な統一性を獲得する。<<
ほほう。
>>【p.128】そして、統一的な身体を獲得することは、他者の身体が他者に属し、私の身体が私自身に属することを了解することでもある。このことこそ、私が身体を介して世界にかかわっていくための基盤をなしている。ただし、自他分節によって、自他の一体的な関係が消滅したわけではない。それを基盤にして新たな自他関係が重層的に構築されるのである。<<
「他者の身体が他者に属し、私の身体が私自身に属することを了解すること」…って、
ムンクといえば統合失調症。オスロ大学壁画の巨大な太陽は、精神科医の宮本忠雄によって患者の回復期にしばしば描かれる「太陽体験」の表現と解釈された。良い意味で世界の中心が自分ではないことを理解するコペルニクス的転回。
— 斎藤環さん (@pentaxxx) 2013年6月6日
の
「いい意味で、自分が世界の中心ではないと理解すること。」とつながってるんじゃないかな?と思ったり。
つづきの「自己アイディンティティ」や「自我と他我」についての章も、おもしろそうなんでちゃんと読んでみたい。