ahoosenの日記

エビリファイ15mg,セロクエル12.5mg,ハルシオン0.25mg服用者の独り言。

からだと自我-Elizabeth Bishop "In the Waiting Room"より

唐突ですが、学生時代に書いたのをさらします。

自我とかことばとか身体について
いろいろかんがえてみたいなーと思ったので。


元になった詩は
http://www.poets.org/viewmedia.php/prmMID/15211
から読めます。

詳細は「続きを読む」から。


 この詩で問題になっているのは、語り手である”I”が体験した”the sensation of falling off / the round, turning world / into cold, blue-black space.” 〔p.36,8-9行〕つまり、「丸く、回る世界から、冷たく蒼黒い宇宙へと落ちていく感覚」、それが何に起因するのかということだが、私はそれを、ある根源的な皮膚感覚に由来するものではないかと考えた。そこで注目したのが、本文の中の以下の一節である。

What similarities-

boots,hands,the family voice

I felt in my throat, or even

the National Geographic

and those awful hanging breasts-

held us all together

or made us all just one?〔p.36,28-34行〕

どのような共通項があったというのだろう-

ブーツ、手袋、咽に感じた血縁の声、

ナショナル・ジオグラフィック誌、

そしてあの醜く垂れた乳房、それらの中の-

どこにわたしたちを束ね

ただの「ひとつ」にする要素があったというのだろう?

 ここでは語り手が、直感的に「ひとつ」だと感じさせられたものが羅列されている。これら登場する要素の共通項、それは、どれも身体に関係しているということである。ブーツは足に、手袋は手に、声は咽に、そして醜く垂れた乳房。ここから、主人公の体験した「感覚」は、わたしたちすべてが持っている、からだというものに起因しているのではないかということが見てとれる。

 少女は、落ちていくその感覚を留めようとして、「あと三日で七歳」「名前はエリザベス」というラベルを持ち出して自己を規定しようとする。だがそのラベルは、”you are one of them〔p.36,13行〕(おまえは全体の一部にすぎない)というスペルによってたやすく剥がされてしまう。ラベルの剥がされた後にあるのは、物体としてのからだ、名前も歳も関係のないただの”body”である。

 ここで、最初の引用をもう一度見てみる。足、手、咽、乳房という、それぞれの要素には、身体に関係するという共通項はあるものの、登場の仕方に統一性がなく、ばらばら-”fragment”(授業ノートより引用)な印象を受ける。そして、これらのパーツの中には、頭が出てこない。これには、登場するのが少女-子供で、まだ統一的な物の見方ができないということもあるかもしれないが、名前という便利なラベルが剥がされてしまったことによって、自分を統合していたものがなくなり、ばらばらになってしまった様を表している、とも読める。

 だとすれば、同一化によって、逆にそれぞれの個は解体されてしまうという皮肉が立ち現れてくる。大きく見れば「ひとつ」に束ねられている個だが、それぞれの個の中では逆に統一感が失われ、細かなパーツに分解されてしまっているのである。どんなに頭で考えて、自分という存在は特別なものだ、エリザベスはただひとりだ、と主張しようとしても、肉や骨は容赦なく、「わたし」は愚かなおばさんや醜い乳房と同じ、ただの肉のかたまりなのだと告げようとする。

 おばさんがドアの向こうで発した oh! という叫びは、血縁という共通項によって語り手のものと同一になった。この、極めて直感的、身体的な同一感覚が、彼女にゆらぎをもたらすきっかけとなる。少女にとっての、このAunt Consuelo は、”I knew she was / a foolish, timid woman.”〔p.35,31-32行〕 (彼女が、愚かで臆病なひとだということを知っていたから)という言葉が示すように、一緒に暮らし面倒を見てもらってはいるが、敬意の対象にはなりえず、母親のような絶対的な安心感や愛情を汲み取ることはできない、身近な他人であったのだろう。彼女にとっておばさんは、意識の上では、自分の世界の外にいるひとりの他者でしかなかった。ところがこの「血縁の声」によって、思いがけず、おばさんと自分との間に、どうしようもない身体的な”similarity”を見出してしまうのである。ここで自分と、おばさんという「他者」とを隔てていた壁が決壊する。

 そしてナショナル・ジオグラフィック誌に掲載された、吊るされた男の死体-”Long Pig”〔p.35,15行〕-胴長の豚とキャプションのつけられたこの死体からは、意思や心、魂といった、人間を規定する-少なくともそう考えられている-要素を見出すことはできない。だが、少なくともこの死体は「からだ」を持っている。そして「からだ」という物体を持って三次元空間に位置を占めている、という点においては、死体も少女も、なんら変わることがないのである。少女は、吊るされた死体と自分の間に存在する確かな差を見出すことができなくなってしまった。生と死の間を隔てていた、魂という要素までも彼女は失ってしまったのである。これはほとんど、自我の喪失、精神の死に近いショックを彼女に与えたに違いない。

 人間から名前や社会性を取り払ってしまえば何も残らない、という主張は、肉体とは別に魂というものがあって、それらは肉体が滅びても永遠に続く、という考えの対極にあるものだ。この体験によって、語り手である彼女は、自分というもの、魂というものの確固たる存在を否定しなければならなくなった。この”In the Waiting Room”における喪失感は、”One Art”の三連目、”Then practice losing faster: / places,and names, and where it was you meant / to travel.”〔p.37,7-9行〕(それから、もっとたくさん、もっと速く、失くす練習をしてみよう / 場所も、名前も、旅の目的までも)という一節に共通しているように思える。名前とその意味を、さらには自分という存在の確かさまでも失くすという体験を経て、詩人はこの一節を書いたのだ。

 さらに、「からだ」に引きずられてアイディンティティを失くす物語として参照したいのが、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」である。一日のうちに何度も体の大きさが変わるという異常な体験をしたアリスは、”Who are you?”〔p.60.1行〕という芋虫の問いにうまく答えることができない。今朝はアリスだったかもしれないが、今は自分ではない、自分が自分であるという確信が持てない。少女の自我の揺らぎを描いているという点で、この二つの作品は共通している。

 アリスに不安をもたらしたのは、変わることなどないと思っていた自分の体が容易に変化してしまったという事実にある。体の急激な変化は、思考よりも先に、感覚に重大な混乱をもたらし、自分の体が自分のものでないような感じを与える。魂は不変、自分は自分という概念的な主張は、身体的な違和感の前では役にたたない。そしてアリスは自分の存在そのものに違和感を覚え始める。

 アリスと同じようにこの誌に登場する少女も、自我のたしかさに不安を抱いている。だがそれは、彼女たちが成長期、思春期のとば口に立つ、不安定な年頃だからという理由だけではない。どんな年代の人間もこのような不安を抱く可能性がある。何故なら、人間のからだは常に変化するからだ。三ヶ月もすれば、身体を構成する細胞はすべて入れ替わるという。それなら、連続した自己というものはどこにあるのだろうか。魂や心を持ち出すことなく、この問いに答えるのは非常に難しい。

 変化しつづけている、ということは、言い換えれば、時の流れと共に、一刻一刻ごとに異なる自我がたち現れてくる、とも言える。今ここで Oh! という叫びを聞いた自分と、聞く一秒前の自分とでは、それぞれ全く違った感覚に支配されている。それならば、今、ここ-”In Worcester, Massachusetts,””the fifth / of February, 1918.”に存在する自分-自我は、翌日には消えてなくなってしまっているかもしれない。今ここにいる自分、というものの”unlikely”〔p.36,36行〕さを詩人は捉え、常に変化の一歩手前にいるその状態を”In the Waiting Room”という題で称したのだ。

 この waiting room にいる人々(大人も、子供も、ナショナル・ジオグラフィック誌と、その中に掲載された写真の人々も含めて)、は皆、うつろいやすく壊れやすい「からだ」を抱えており、同じく変化という”big black wave”〔p.37,5行〕-おおきな黒い波を免れることができない。誰もがその事実を心の片隅に留めていて、恐れ、また期待して、次の瞬間の変化を、座ったまま待ち続けているのである。


〈引用文献〉

McClatchy,J.D.,ed. The Book of Contemporary American Poetry, New York : Vintage, Random House, 2003.
Lewis Carroll, Alice’s Adventures in Wonderland and Through the Looking-Glass, New York : Bantam, Doubleday,1992.